殴り書き

気持ちの整理と備忘録。






このブログを最後に書いた日。歌をやめようと決意したあの日から、もう2年が経った。

私はというと、結局なし崩しでまた音楽の元に戻ってきていた。元々足りなかったのに、2年のうちに失った歌唱力と音感は直ぐに埋められる訳もなく、以前よりずっと酷い歌を歌って、晒しているような気がしている。

何となく思い立って、昔の自分の歌を聴いた。
nanaのサブ垢に壁打ちみたく放り投げていた、拙い歌の数々。ピッチは酷いし、発音はふにゃふにゃだし、表現は不器用で聴きにくいものばかりだった。
でも、今みたいに保身が少なくて、もっと挑戦的な歌ばかりだった。私は昔、ギリギリ出るか出ないかみたいな、苦しい音域を頑張って張るのが好きだったのを思い出した。小学中学高校くらいまでは、そうだったと思う。

それを辞めたのは、「お前は無理して張らなくていいよ、それでも良さがあるから」と言われてからだと思う。
仲の良い、信頼している人からの言葉だった。元々張れる音域が狭い私には救いの一言でしか無かった。張らなくていいなら、もっと綺麗に表現出来る。もっとピッチを気にすることも出来る。これでまた私の歌が前に進めるって、そう思った。

いざ蓋を開いたら、中身のない薄っぺらな音楽が出来上がっていた。
分かってる。そもそも、彼の言葉は全部が全部張らなくていいって言いたいわけじゃない事。分かってる。全ては私が捉え方を間違えたせいで、自分の歌を客観視出来ていなかったせいな事。分かってる。分かってるけど、私は心の中で「嘘つき」って言った。


私は自分の張った声が本当に好きじゃなかった。汚らしくて、苦しくて、音域が高くなればなるほどそれが濃くなって、破裂してるみたいな飛び散り方をしてて。誰かに聴かせたいとは思わないし、武器として使うにはあまりに耳触りが悪いと思っていた。だから張らなくていいと言われて安心したし、自分の耳を再度信じることも出来た。そうだよね、私の声、やっぱり良くないよねって素直に頷くことが出来た。


でも、私の張った声が好きだと言う人もいる。一切張らない音楽は、甘さのないわたあめのような味がする。同じことばっかりやっても面白くないよ、と私に説いた人がいる。


歌いたいものを、自分が表現したい方法で完成させたいだけなんだ。本当は。どう歌った方が好かれるかとか、聴こえがいいとか、イマドキっぽいかとか、全部かなぐり捨てて、やりたいようにやりたいだけだ。
それに数字がつけば勿論嬉しいけれど、つかなくたって構わないんだ。私の解釈を極限まで濃ゆくして溶かしこんだ歌を、満足いく形で完成させることが出来た。その事実が、私にとって1番の幸せだから。


でも、それは"歌い手"という活動においてはとっても格好悪く見える。数字がなきゃ、皆が認めるものを出さなきゃ意味がない。そう言われている気がする。


多分、ふたつを満たすことはほぼ出来ない。
私が心から愛していると言えるサウンドには、必ず低評価がついている。綺麗に自分の愛したサウンドにだけ、ついている。思想盛り盛りの音楽は、どう足掻いたって万人受けはしないということが、結果として現れていた。


じゃあ私はどっちを取ればいいんだろう。
自分を殺して需要を取るか、数字を殺して理想を取るか。
いや、別にどっちも取っていいとは思う。交互に選曲するとか、その時の気分に合わせるとか、全然やればいいとは思う。
でもそれすら恐ろしく思うのは、私が1番皆に執着しているからだ。私が1番、どっちの自分も否定しているからだ。


全部、周りの目に対する私の気持ちのせいなんだ。
張れなくなったのは、私には歌えないと思っているから。私の声なんかが、って思っているから。暗に裏声が好きだと言われた気がしたから。
歌をやめようと思ったのは、自信がなかったから。私にはもう皆が求める"麗音"でいられる力がない、恥ずかしい、申し訳ない、居た堪れないと思ったから。
数字を捨てきれないのは、本当に誰一人私の歌を忘れてしまったら悲しいと思っているから。


下手な歌も、聴き苦しい歌も、解釈の深淵みたいな音楽も、流行りだけを詰め込んだ消費の早い音楽も、私が選んで作った音楽だ。間違いなく全部私のものなんだ。
そう唱えて、理解して、真っ向から愛してあげることが、今の私には出来ないから苦しいのかな。


私は、自分のことも、自分の音楽のことも、こんなに分からない人だったのかな?
皆から見た私ってどんなだろうとか、皆から見た私の音楽ってどういうものだろうとか、私のどんな音楽が好きなのかとか、そんな事ばかり考えて、夜が明けた。