『怒り』と上手く向き合えない話
私、怒るのが苦手です。
大前提として、あんまりイライラすることがありません。
全くないとは言わないけど、ある程度の事は流せる自信があるし、皆がイライラしている様子を横目に「こういう事でもイライラしてしまうんだなあ」と内心思いながら黙るタイプです。
加えて、他人の怒りに遭遇することが怖くて苦手なので、自分自身も怒りたいと思えません。
イライラしている人を見ている時の自分はとっても息が苦しくて、心が締め付けられる時が多いから。自分がそういうストレスを与える側にまわることを考えるととても嫌で、怒りたくないんです。極力。
でも怒らないとやってられない時があるのも分かるから、責める気もないという感じ。友人の愚痴を聞くことも多いし、それでガス抜き出来るのであれば幾らでも立ち会いたいなとは思う。
だから、怒りが完全悪だとも思わない。人間の感情として必要なパーツだとも思う。
そんな私でも、時々とんでもない怒りと直面することがある。
ビル丸ごと破壊できそうなくらいの巨大な爆弾を、有無も言わさず心の中に突然植え付けられて、どうすればいいか分からなくなる時がある。
というか普段あまり怒らないから、いざご対面する怒りって、本当にとんでもないくらい大きなものが多いんです。怒りと認識するまでの基準が高いから、小さな怒りという概念がそもそも存在していないのかもしれない。
それか小さい爆弾は自分一人で処理できるから、そんなに困ってないかのどっちか。
そうして自分一人ではどうしようもないくらいの、自他ともに見境なく傷つけるような怒りを前にした時。
私は泣き喚くことしか出来ないことに気づいた。
絶望して、悲しくなって、虚しくなって、その気持ちが私だけを蝕んでいって、勝手に死んでいくことしか出来ないことに気づいた。
これだけ限界の縁にいても、怒りの原因になりふり構わず刃を振りかざすことすら出来ないんです。
言いたいことも、やってやりたいことも、ありったけの悪意も手元には全部揃っている。感情に任せて相手をズタズタに切り裂く武器は無数にあるのに、それを上手く使うどころか握ることすらままならない。
ってなったらもう、誰かに話を聞いてもらおうってなるよね。きっと皆もそうだと思う。
でもその時ですら、100%の解放が出来ない。全肯定してくれるような友人に話を聞いてもらったとしても、“怒っている自分”の姿をふとした瞬間に客観視して、どうしようもなく惨めに思ってしまう。
ああ私、今みっともなく怒ってるんだ。自分の感情をコントロール出来なかったんだ。そんな風に考える。
そしてどれだけ自分の怒りが正当なものだったとしても、怒ってしまった時点で自分の方が悪いような気がしてくる。
周りの人の手を借りてまで愚痴を言ったのにすっきりしないし、仮に言わずのままだったとしても心が疲弊する。
つまり私は、怒り=100%相手を傷つけるもの と思っていないにも関わらず、素直に怒ることが出来ないわけで。
怒らないって、私美徳だと思ってた。
今まで散々怒りっぽい人に出会ってきた。それまでとっても楽しそうにしていたのに、気に食わないことがあると途端に怒り出す人を沢山見てきた。それら全員が心の底から好きになれなくて、常に何処か冷ややかな目で見ていた記憶がある。
こういう人にはならないでおこう、と何度も唱えてきた。
でも、今は少し違うかもしれないなって思う。
全く怒らない。怒れない。怒り方が分からないというのも、十分病気だと思う。
なんなら今は、少し羨ましい。
あれだけ真っ直ぐな怒りをいつでも表現出来る事が、眩しいとすら感じる。
私はこの記事を書き上げてネットにアップすることすら若干の恐怖があるのに、彼らはそれを眼前で、生身でやってのける。
例えば、不当な扱いを受けた友人の話を聞いただとか、苦しんでいるのを無理くり我慢している様子を隣で見ているとか。
そういう、怒りの当事者が自分じゃなくて他人だった場合は、ストレートに怒れるのにね。
自分一人が抱える怒りには、どうしてこうも対応できないんだろう。
何よりね、多分これらの気持ちが一切わからない人って、人の機敏に鈍感な人が多いんじゃないかなって思う。
なりふり構わず自分の言いたいことを言って、やりたいことをやっている人。...っていうと若干の語弊があるけど。
その裏で、貴方の自由をなくなく飲んでくれている人たちのことを一切考えないどころか、そういう存在にすら気づかない人達。
そうはなりたくないんだよ。決して。人の心が分からない人間になりたいわけじゃない。ただ健全に、自分一人の権威の為に、正しく怒れるようになりたいだけなのに。
どうすればいいんだろうねえ。
難しいね。生きるの。