真夜中乙女戦争


『真夜中乙女戦争』
この本を買うきっかけになったのは、電車の中でなんとなく目に止まった広告だった。



くそ眠たい朝のむさ苦しい満員電車の中で、私の前だけが少し視界が開けていて、その直線上に貼ってあった。Fさんのことは前から知っていたし、Twitterもフォローしているし、本を出した事も知っていた。でもその日その広告を見るまで存在は忘れきっていた。



『真夜中乙女戦争』が2作目であることも、1作目の『いつか別れる。でもそれは今日ではない』を読みたいと思いつつも読んでいないことも思い出す。そして今これを書きながら、Fさんがこの記事を読んだら「いや、今まで読んでなかったんでしょ?それは読みたくなかったってことだよ」って言われそうだなって思った。








3日だか4日だか後になって、普段絶対に立ち寄りもしない本屋に突然突撃して衝動的にこの本を買った。多分疲れてたからだと思う。自称軟弱学生だからすぐに心が折れる。大したことない肉体の疲労は、チリツモで精神の疲労に変わる。そして折れたものは直さなければいけない。別に直す義務があるわけじゃないけど、私の生活上は直さなければいけなかった。直すには接着剤が要る。その接着剤がこの本だった。正確には、「普段なら絶対しない『本を買って読む』という行為」が接着剤だった。








Fさんも『真夜中乙女戦争』も全く知らない、それでいて私のブログに度々目を通してる人にそれらをざっくり説明するとこうなる。

私の思う、ありとあらゆる古今東西の「好き」を、水洗いもせず、カットもせず、皮も剥かずに鍋にぶち込み、弱火に掛けて80光年じっくり煮込む。そうして残った小さなダークマターが『真夜中乙女戦争』。














多分これで相当やばい作品であることは何となく分かって頂けたと思う。実際相当やばい。



何がやばいって、なんかもう全てが。
私はこれを読んで、本気で何で生きてるのかよく分からなくなった。この本は私の全てを世間ごと否定し、ぶった斬り、甘えるなとコンクリートに首根っこ掴んで叩きつけ、最後にはでも大丈夫って優しく抱きしめた。そして全く同じ仕打ちを受けた読者が腐るほどいることも同時に知らざるを得なくて、私の中から個性と思っていたものが総じて全部消えた。この痛みが私だけのものだったら寂しくなることも虚しくなることもかったと思う。











まず。何の取り柄もない1人の大学生が、ある2人の人物と出会って東京を物理的に破壊していくというストーリーはとってもとっても美味しい。
東京タワーが東京に存在するものの中で一番綺麗で美しくて尊いものであることも理解出来る。何度も足を運んだ私がこんな事言うのもなんだけど、スカイツリーは必要ない。そもそもライトアップが全く綺麗じゃないのが許せない。



大学の知り合い以上友達以下の奴らが、自分の人生において何の価値もないということも代弁してくれる。教授だろうがお偉い様だろうが、どこまでいってもクソ野郎はクソ野郎だと臆することなく言ってくれるこの本が本当に好きだ。



一方でそれらがあまりにリアルに描かれるもんだから、フィクションのはずがノンフィクションにしか思えなくなって絶望する。何に絶望するかと言えば、その主人公と自分自身に。



その主人公は恐らく読者の大半が当てはまるような環境に身を置いていて、それぞれが自分と重ねて読むには十分すぎた。主人公を重ねると、今度はその世界観ごと重ね始める。そうして自分も、自分の生きるこの世界も、どれだけリアルに描かれていようとこの物語のようにならない事を悟って死にたくなる。



こんな経験をしてみたい、とファンタジーに思いを馳せても結局はそれで終わる。読み進めていくたびに、紙の上で東京は少しずつ壊れていき時代は遡り文明は土に還り日本は死んでいく。比例して私は怖くなる。面白い事や変化を望みながらも、結局は平凡に胡座を掻いていることをそこで痛感するからだ。
もうそんなこと何億回と繰り返してきた。この本を読んでもそれは変わらないし、変わらないことを知ってしまったからこそ余計に生きる意味を見い出せなくなる。



朝起きたら知らない世界にいる事を何回願ったことがある?地下鉄が横転して出られなくなり、突然始まる生き残りを掛けたバトルロワイヤルを何回期待したことがある?授業中に窓ガラスが割れてそこから入ってきた天使か悪魔かよくわからないやつが、私にだけ超能力を与えてくれる事を何回夢見たことがある?目隠しをしながらマイクを握っている時、歌いながら目が見えなくなることを貴方は願ったことがある?



私はあるよ。そして貴方はない。そう言ってほしい。この残念すぎる厨二思考が私の個性だと思っていたから。でもこの本は「そんなやつは1歩も歩かなくても半径50m内に3人は堅い。もっと言えば、この本の文体の影響を今まさに受けながらこのブログを書く君に個性を語る資格はないよ」と言ってくる。人間とかいう大量生産されたマネキンの中でFさんも確かにその一人のはずなのに、こんなにも強く言い切ってしまえる強さは一体どこから来るんだろう。










何度も何度も、地の文でもセリフでも「人はいつか死ぬ」と言い聞かされてその上で「どうして生きてると思う?なんのために生きると思う?」と問われる。気が狂う。本を近くの川かなんかに投げ捨てたくなるぐらいには気が狂う。眠れない夜に宇宙のことを考えて泣きたくなるのなんて比にならない、圧倒的なまでの虚無。



それ以外にもこの本には沢山の質問が載っていて、その一つ一つは答えがあったりなかったりする。
あるライブで私は「どうして罪があるのか」「どうして罰があるのか」と問いかけたことがある。私は「罪があるのは諦めているから」「罰があるのは求めすぎるから」と歌った。この本に同じ質問はなかったけれど、「愛は絶望であり、絶望は愛ではない」という言葉はあった。私はあぁ、繋がっていると思った。












というか、Fさんは本当に凄い。こんな本を精神病院行きにならずに書き上げるなんて、褒めているにしろどうかしてると言いたい。そもそも物書きさんはどうかしてるから存在してるという私の持論はあながち間違いじゃないと思う。



何百ページ足らずの活字を読んだだけで私はこれだけ精神を掻き毟られて、挙句耐えきれずに超高速で右手の親指を液晶上で動かしているのに。ほらもう文が支離滅裂。いつもだった。ごめん。














何が言いたいかというと、この本を読むと少し...いやかなり変わる。人それぞれ変わる内容は違うと思うけれど、何でもいいから変わってほしい。影響を受けてほしい。この本を読んで寂しさに打ち震えて涙を流す人が国に溢れ変えればいいとさえ思った。簡単に生き死にを語るなって言われそうだけど、この本の良さは命の重さとかこれっぽっちも考えてないところにあるから。その軽さの中にある真面目で切実なやりとりが最高だから許して。



私はさっきも言ったようにこれを読んで個性と生きる意味を見失った。同時に常識的に生きれる人間は本当に賢いということを知った。そして不可能なことも含めて、やってみたい100の事を書き起こしてみようと思った。


3億あったら何をするかも、
心の底から愛せる友人が何人いるのか数えてみることも、
映画を作るならどんな話にするかも、
どこでもドアがあったらどこに行くかも、
1人だけ罪に問われず殺せるなら誰を殺すかも、
生まれ変わるならどんな人になるかも、
絶対に両想いになれるなら誰と付き合い結婚するかも、
透明人間になったら何をするかも、
全部全部、考えてみることにした。







でも私がどれだけこのブログに衝撃的なことを書こうと、情熱的な愛を書こうと、読者の誰一人としてこの本を買おうとはしないと思う。でもそれでいいよ。私がどれだけ大口を叩こうと叫ぼうと喚こうと泡吹いて倒れようと、世界は変わらない。それはTwitterでもインスタでも同じだ。だから好き勝手言える。だからこの物語の中の世界は成立する。



多分それはこれだけの文を認めたFさん本人も同じで、『真夜中乙女戦争』は傑作中の傑作だと讃えられても世界を変えられる力はない。それがこの上なく不思議になるくらい、この本は凄い。どう凄いのか、もっと具体的に知りたい人は是非買うべきだよ。今すぐに。Amazon楽天じゃ駄目。書店で買え。ワンクリックで何でもかんでも手に入ると思うな。じっさいこの本はワンクリックで手に入れられる品だけど、中身はそんな安いものじゃない。そんじょそこらの自己啓発本とか広辞苑、大人の人生経験談よりは間違いなく役に立つと思う。








私のブログを欠かさず読むような物好きと、プリンセスになりたかった女の子と、仮面ライダーになりたかった男の子と、毎日決まった時間に起きて仕事をして帰る生活が自分には出来ないと思ってる人には読みやすい本だと思います。というか純粋に面白いよ。



因みに従順に真夜中に読むと120%気づけば高層ビルの屋上のフェンスに足をかけることになるからやめた方がいい。かと言って読むのは朝でも昼でもないから、この本を手にした時点でもう貴方は負け。何に負けたかは読んだ自分が一番理解出来ると思う。






あ、眠い。寝る。物書きごっこ楽しかった。
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