意味のないことに意味はある

え????いや、最初から2ヶ月おき更新でしたよ。











平成最後の夏は、私にとっていつもと何も変わらない夏になりそうです。
強いて言うなら、去年より暑い。一刻も早くこの国から湿気と極度な日差しを締め出してほしい。











私は勉強が得意ではないので、生まれてこの方日本語しかまともに喋れる言語がない。



ずっと日本語が好きだったし、これからも多分好きだとは思う。
日本語は綺麗だとよく言われてる。私はそれに納得してた。よくわからないけど感覚的に雅だと思ってる。雅と聞くと日本のあれこれが浮かぶ。そのぐらい私の中でこの言葉と日本文化は密接に繋がりあっている。
そして私はその『雅』が好きなので、結論として日本語が好きという方程式が出て来る。うん、何も間違ってない。


けど。











あれは私が大学で舞台演習(日本語訳の戯曲「ハムレット」を読み解いて、その作品にまつわる時代背景から作風、作者の意図etc.....を考察する)の授業を受けていた時。こんなことを言われた。夏休みに入る前の最後の授業だったと思う。











ハムレットだけじゃないが、シェイクスピアの作品には『独白』という台詞が多く存在する。『独白』というのは、誰に向けて喋っている訳でもない。だが独り言とも少し違う。独り言を意味する『傍白』という別の言葉が存在するからだ。



そして日本語に訳されたものだと、実はその『独白』の本分は成り立たない。何故なら日本語は重たいから。日本は回り道をすることに意味を見出すタイプだ。実直かつ素直なのは、それこそ雅じゃないと考えてきた。だから隠されたあれこれを解きほぐさなければいけない重たさがある。それは日本語にしかない良さとも言える。



こういうと少し語弊があるかもしれない。じゃあ他の言語は軽いのかと言いたくなるだろうから。実際そういう訳では無い。けれど日本語が『独白』に向かない言語であることは確かだ。



さて、では『独白』とは一体何なのか。
それは、音重視の詩のようなものだ。
日本語は、意味ばかり先行して音で楽しむという文化があまり存在しない。例えば有名な言葉「月が綺麗ですね」という言葉を聞いて、「あぁいい音の羅列だ」とはならない。「なんて素敵な意味が込められているんだろう」辺りが妥当だ。




強いて言うならラップや五七五があるが、それにも限度がある(実際私の授業で使っている戯曲は独白部分が五七五調で訳されていたが、違和感がないかと言われれば微妙なところだった)




詩と言ったが、意味が完璧にしっかり構成されている必要も無い。つまり、ただその言葉の持つ音を耳で楽しむだけの台詞。長い数分の『独白』を、客は「あぁいい音だ、いい発音だ、いい音の羅列だ」と言いながら目を瞑って聞き込む。舞台を見に来ているはずなのに、目ではなく耳で鑑賞する。まるで演奏会を楽しむように」










長々とした先生の話は難しくて、全てを飲み込めたわけではなかった。けど、何故か「日本語は重たい」と言われた時ドキッとした。






最近私が韓国の文化にハマっていることは、Twitterとかでも騒ぎ散らしてるからよくご存知だと思う。うるさくてごめんな。


その分、当たり前だけど韓国語の曲にも沢山触れる機会が増えた。またそれとは別に延長線で洋楽やロシア語の曲とかスペイン語の曲とか、もうそれは何言ってんだこいつみたいな音楽をよく聴くようになった。因みに何言ってるかはひとつも分からない。






でも、不思議と私はそれがとても好きだった。
何を言ってるか分からないけど、歌ってる時の表情とか抑揚、曲の雰囲気でそれっぽいことは伝わってきたりもする。何よりそれで留まってくれることがとても心地よかった。




し、意味がわからないと実際、言葉の音に楽しさを見いだせる。日本語と違う発音のオンパレードで不思議な感覚だけど、気に入った発音があると何度もそこを繰り返し聴く。
あとで歌詞を調べると大した意味がないことが多くて、それでもその曲で一番好きで印象に残るのは、その聴き心地がいい部分だ。


聴き手側にとっては「意味のない音楽」も楽しめることを知ったきっかけだった。






そう思っている自分 + 先生の言葉 = 納得





ドキッとした正体はこれだった。
さらに先生の話は続く。








「もう一つ余談だが、音を楽しむ文化が根強く残る言語の劇は、言葉を理解出来なくても劇の内容が全て分かることがある。



これは実体験だが、英語が全く分からない幼少期、アメリカに有名な劇団の台詞劇を見に行った。独白に限らず、台詞が音で楽しめるほど洗練された発音で演技をしていた。



初見の話だったがストーリーどころかセリフ一つ一つの意味が分かる不思議な体験をした。さらに数年後、同じ話を別の劇団がやっていて見に行ったら全く内容が入ってこなかった。知っている話なのに終始理解出来ずに終わった。




何故なら、発音も聞き心地も全く良くなかったから。普段そういうことを気にしないこの国の言語は、一体どれほどの伝達力があるんだろうか」









なんてこったい。




私は普段、歌詞一つ一つに細かい感情表現を乗せに乗せて歌ってきた典型的日本語人間だった。
自分でもそれが大事にしていかなければいけない個性だと思ってた。








別に私の歌が重たいことなんて知ってたし、それを意図的に目指していたからそれに関しては今更?って感じではあるんだけど。





鵜呑みにすると、私、無駄に重たさだけを残して意味を半殺しにしていることになる。日本語の重たさに私の重たさが足されて、なんだそれもう重量級メンヘラかよ。


実際多分皆にはそう聴こえてるんだと思う。
私の中ではルンルンのウッキウキで120%楽しいです~~~~~^みたいな感じで歌った歌も、「めっちゃ気持ち篭ってて...」と言われることがある。いや、そんなことないんやで...と凹むことが結構増えた。私の歌っていつも重く聴こえてるだけで、実際込めてるつもりの「気持ちの重さ」は伝わってないのかもしれないって感じる。



しかも発音とか聴き心地とか殆ど気にしたことないし、何なら無理矢理抑揚つけてる部分だってある。私の音楽は痛々しくて、無理矢理こじ開けて押し入る拳で語れタイプだ。




え、じゃあ私今まで皆に何を伝えられてたんだ????









日本に薄っぺらい(と思う)音楽が有り触れてる理由は、本人が口に出した言葉よりも、その言葉自体が端から持ってた意味の方が重たみが勝ってしまってるからかもしれない。
それっぽく取り繕っても見かけ騙しに見えてしまうぐらいに、日本語は重たいんじゃないかな。だから上辺だけの音楽がいっぱいあるように感じてるんじゃないのかな。



ピッチをバチバチに合わせて歌える人はこの国にもいっぱいいる。カラオケ王みたいなのもテレビでやってるし、それなりのオーディションとかにも歌で食べていきたいと思っている上手い人はわんさかいる。



でも特に歌は響かないみたいな話はごまんとあって。



熱意がないわけじゃないのに何故かって、それは日本語はそもそも、音楽の枠では大衆性がないからなんじゃないかな。








とか、ぐるぐる考えてるうちに思った。
どうせ伝わらんで重たくなるだけなら日本語やめよ、と。








そう、だから、えーと、結局、つまりね。
押し売りの「意味のある(仮)音楽」見直しプロジェクト始めます。



1人巻き添えという名の共犯連れて、「意味の無い意味のある音楽」をやってみようと思います。
多分それは人によっちゃ理解出来なくて怖いものだと思うし、自分にとっても挑戦だし、反逆者みたいな気持ちでもある。


そもそも、自分の中には10あるものが聴き手側に1も伝えられない歌なんか私が歌って価値あるか?聴いてて楽しいか?記憶に残るのか?とも思うけど。


記憶に残らない音楽を意図してやるのめちゃくちゃ難しいと思ったし、できたら鬼かっけぇやんって思ったんでやるわ(?)
これは自分の音楽に、というか何なら皆の音楽の中にも必要になりうるものだなぁと、紆余曲折経て思ったのです。そう、だからこれは決意であり宣誓であり布告。






こんな私事56億%な内容長々ブログに認めたのにはちゃんと理由があるから、記憶の隅ぐらいに置かせてね。


近いうちにどこかで会いましょう。








...え、待ってまじで言いたいこと言えてるか分からんくなってきた。ウケ。





P.S
これを出すまでに書いた下書きが25もあった。
書きたいことを簡潔にまとめられないので、いつも結局オチ何書きたかったか忘れる芸人。(今これ)