人助けだと思っているのは自分だけかもしれない

さっきあった話。まだ手が震えてる。




21:00頃。電車での帰り道。友人と2人で乗り込んだ車両には、大号泣する小さな女の子が乗っていた。多分...まだ保育園に通ってるぐらいの小さな子。泣き喚く子供に遭遇することは、公の場だと珍しくない。この時は「どうしたんだろうね〜🥺」ぐらいの気持ちで流していた。他の乗客も、気になるようでちらちら見てはいるものの、特に声をかけるなどはしていなかった。



ただ、どうにも泣き方が酷い。かなりヒートアップしていて、収まる気配もない。こんなに泣いてるのにお母さんは何をしてるの?と思ってよく見ると、扉の傍で完全に塞ぎ込んでしまっていた。床に這い蹲りながら暴れる子供をしゃがんだまま時々引っ張って、でもそれ以上に何かすることはなかった。多分、しなかったというより出来なかったんだと思う。見たところ、私達が電車に乗り込むずっと前からこうだったように思えたし、もう八方塞がりだったのかもしれない。凄く凄く心細くて、怖くて、どうしていいのか分からなかったのかもしれない。



流石に不味さを悟って、2人の元に駆け寄った。突発的に動いてしまったけど友人も後を追って来てくれて、2人で「大丈夫ですか?」とお母さんに声をかけた。私たちの声に、お母さんは伏せていた顔を上げて「すみません」と涙ながらに返した。その顔を見た途端頭が真っ白になって、兎に角救わなければという一心で子供をあやした。



子供なんていつもは怖くて近づかないから、当たり前だけどあやし方なんて知らない。それでもやらなければと必死だった。噎せる勢いで叫び続ける子供の背中を揉むように撫でて、「辛いね」「苦しいね」「電車乗れて偉いね」「早くおうち帰りたいね」と語りかけ続けた。ボロボロ涙を流す子供の顔をこんなに近距離で見たのは、正直私の記憶上これが初めてだと思う。なんというか、胸が痛かった。



少しずつ落ち着いてきたのか、1分としないうちに子供は泣き止んだ。お母さんに「どちらで降りられるんですか?」と聞くと、頭をフル回転させている顔で降りたい駅を答えてくれた。逆方向だと教えてくれた友人の言葉を聞いて、次に止まる駅で2人は降りていった。「すみません」「ありがとうございます‪」をひたすら繰り返すお母さんの姿が痛々しくて、2人で「お気を付けて」と手を振って別れた。



扉が閉まる直前。お母さんは再びホームにしゃがんで、子供に「ごめんね、本当にごめんね」と辛そうに呟いていた。







思うことは本当にいっぱいある。
あの子が何故あんなに泣いていたのか私は結局分からなかったし、お母さんがああなってしまっていた理由も分からない。具合が悪かったようにも見えたし。
あれだけ沢山の人が周りにいて誰も助けなかったのかな、とも思うし、私も善人じゃないので傍観者で終わっていた可能性の方が高かったと思う。
友人に「人助けすごいね」と言ってもらって嬉しかったし、私も人助けのつもりでやった。でも「勝手に自分の子供に触られるのが許せない」なんて内容の呟きもよく見るし、それは共感を呼んでいるから私のTLに回ってきているわけで。



良かったのかな、これで、という気持ちが残った。
「触っても大丈夫ですか」と一言付けるべきだったかなとか、お母さんのことももっと気遣うべきだったかなとか、そもそも全部迷惑じゃなかったかなとか。



私は生涯子供を産まないと決めているので、世の母親の気持ちが分かる日は来ないと思う。今日これを体験して、より母親になるのは恐怖だと思ってしまったし。だからこそ、もう周りの目とか構ってらんねぇな、という気持ちも芽生えた。突然絡んで不快な思いをさせたかもしれないけど、あの恐怖の中に2人を置いていく事の方が私は嫌だった。見て見ぬふりをしたら、お母さんは終点まで冷たい視線に晒されながら塞ぎ込んでいたのかもと思うと、もう堪らなく怖い。母親は公の場であらゆる恐怖と戦っている気がした。



あの後、2人はちゃんと帰れたんだろうか。
これからまた反対方向の電車に乗って帰るんだ、と、別れた後想像したら辛かった。ちゃんと帰れてますように。