無題

まず初めに、ここ最近いろんな人に「ブログ読んでるよ」とか「更新楽しみにしてる」とか言ってもらえて驚いています。皆ありがとう。好きです。暇なんでしょうか。寝てくれ。



さて。早々で申し訳ないですが注意特記です。
今回の記事はいつもに増して不謹慎極まりない内容が綴られることと思いますので、不快に思った方は即座にバック推奨です。
あとそんな音楽関係ない。そんなというかほぼ全く。
地雷踏み抜いて足を吹っ飛ばされても責任は負いません。でも文句は受け付けるので、当て付けの「クソ死ね」は許します。あと内容が意味不明。長い。古文書レベル。解読班はいないので自力で読み解いてくれ。





















人の命に『重さ』という言葉を飾った人間は誰だろうか。




今まで何にも思ってこなかったけれど、『命』という言葉は薄っぺらいと思う。
というか、この言葉に意味を詰め込みすぎていると思う。
世の中はこの言葉が関わってくると途端にシビアになるし、空気が張り詰めて、崩れそうなトランプタワーを手直しするかのように言葉一つに神経を巡らせる。
私もそうだったし、その配慮自体悪い事ではないと思う。

でもなんだろう。『命』って何?
小学生でもわかるような質問がしたいわけではないんだけど、こうとしか言えない。
拭えない違和感を持っているのがこれだから。

命とは失われたら悲しく、切なく、苦しくなるもの?
大事で尊くて敬わなければいけないもの?


例えば震災で多くの人が亡くなった。大勢の遺族や友人が嘆き悲しむ。インタビューでは「沢山の命が失われて悲しいです」などと言う。
うんそうだね。悲しいよね。分かるよ。分かるんだけどさ。


本当に失って悲しんでいるのは命ではなくて、その人の『存在』だったり、『笑顔』だったり、これから作られるはずだった『思い出』だったり。これらだと思う。
大事に尊く敬わなければいけないものは、『命』という言葉に託された意味たちだ。

だって命ってあまりに漠然としすぎている。
私にはよくわからない。
人間は命がなければ生きていけないよう作られているから大切にされているだけで、例えばその時心臓が止まって死んだとしても、今まで通り一緒にいられるなら命を大切にする人はいなくなると思う。「あの人の命は失われたんです」って言われて涙を流す人はいなくなると思う。
むしろ、「あの人の『存在』も『笑顔』も『思い出』も、もうないんですよ」って言われた方がずっと痛いし、辛い。死んでいなくともこういう状況に置かれれば同じことだ。辛い。


一つの臓器が脈を打とうが打たなかろうが、どうでもよかったんだ。心臓じゃなくて、肝臓の機能が終われば死ぬように作られてたら、今度はそれを命と呼ぶんでしょう?

命はただの人間の仕組みでしかないと思う。そんなものに、『存在』や『笑顔』や『思い出』や『人生』や『愛』や、その他沢山のものを詰め込むのは間違ってる。間違ってるよ。
『命』なんて言葉、これらを支えられるほどのものじゃないと思う。

誰かが目の前の死に対して涙を流す時、その理由が「命が失われたから」だと履き違えるのはもう辞めよう。
それに、誰かの命を大事にできるのはその『誰か』本人だけだし、私の命を棚上げしたり、無碍に扱うことが出来るのも私だけだよ。





ここまで書いて読み直したら、細かいことにいちゃもんつけるクレーマーみたいな事を言ってて我ながら少し嫌だなと思った。
結局のところこの世の中は命が尽きたらこれら全てを失ってしまうので、「何言ってんだ命が大事だろ」って言われたら、あーはいそっスね、としか言えない。この世界はクソ。前回の記事ではこの世界は素晴らしいとか言っといて今回は地面に叩きつけてるあたり、私の脳みそレベルの低さが窺えることと思います。




















人の命に『重さ』という言葉を飾った人間は誰だろうか。




大学生になってまで、倫理の授業では「人の命の重さは平等か否か」なんていうくだらない問題を軸に討論させられる。

その議論って、やるだけ無駄な気がする。
だって『重さ』を持っているのは命じゃなくて愛だから。

何かだんだん綺麗事並べてる感じになってきたけど、この先もこんな感じが続くよ。
愛って言葉も並べるだけ薄っぺらく感じるよね。




こういう質問をされたことはあるだろうか。
家族と友人の命。
どちらかしか助けられないって言われたらどちらを助けるか、というふざけ腐った質問。

そんなもん誰だってより大切な人を取る。家族の方が大事な人もいれば、友人の方が大事な人もいる。これの結果がどうだからって理由で差別されることは無い。『家族』と『友人』という器に重さの大小を求めるのはおかしいよね。



では次。
愛する人と、何処の誰とも知らないやつの命。
うん。そりゃあ愛する人を取るでしょうよ。
反対に、私にとって知らない奴でしかなかった人の家族や愛人は、私の愛する人を見捨てるだろう。当たり前の話だ。
『私』という存在にとって、AとBという価値が異なるものを比べれば平等はない。でも、『私』にはAの方が、『誰か』にはBの方が価値がある...こんなふうに、視点を変えてしまえば「重さ」と名付けられたものは値を変えてしまう。こういう点は平等かもね。




では最後。
どちらも知らない人だったら?
...どっちでもいいよ。子供と大人の差があったとしても、私はどっちでもいいって答える。だって何の関わりもなかった知らない人なんだもん。



つまるところ、命の重さ(笑)は沢山の人に愛された人の方が重く、愛されなかった人は軽い。



ほらね。結局命って鉛じゃなくて天秤や計り側。
命という計りの上に、幾つ分の愛が乗っているか。どれだけの大きさの、どれだけの重さの愛を乗せているかの話。
はたまた命という天秤に私と貴方を乗せてみる。私はこれだけ、貴方はこれだけの愛を持っている。そういう話。


やっぱり『命』って何処までも薄っぺらいと思う。
単体だけで見たら殆どつまらないものでしかないじゃない。それこそ、並べただけで目を伏せたくなるような輝かしいワードの力を借りてるだけだ。冴えない人が見栄を張って流行りものの服やらアクセサリーやらを身にまとってるような。

そんなように思う。





















人の命に『重さ』という言葉を飾った人間は誰だろうか。



小学6年生の頃。
同じ班に居合わせた女の子に勧められたK-POPアイドルのあるグループ。
日本のアーティストとは違う色を持っていたそれに惹かれて、私は彼らのお陰でけいぽが好きになった。
中でも一際高い歌唱力を持ったメンバーが好きで、毎日その友人と給食の時に彼のパートを真似して歌った。



そして一昨日18日。
彼は突然自殺でこの世を去った。
練炭自殺だった。



彼の友人に託されていた遺書も公開され、事務所からも哀悼の意を捧げた文がSNSにあげられた。



私はまだ親戚や友人、恋人が亡くなるという経験がないため、近しい関係ではないが「ファンとして好きだった人」が亡くなった今回の例は、私の人生の中で最も身近な死だったように思う。


夕方過ぎに飛び込んできたニュースを見た時は、悲しさというよりやるせなさ、歯痒さ、大袈裟に言えば怒りに近い感情を感じた。
大手事務所の筆頭と言ってもいい程の人気グループメンバーだった彼だ。数え切れない程のファンがいたであろうし、メンバーとの不仲が上がるようなグループじゃなかった。
なのにどうして死を選んでしまったのかという、疑問。
冷たい言い方をすれば、失望。

見捨てられたような、そんな気持ち。




でも彼は遺書でこう述べていた。

『僕は自分に勝てなかった。
内側から憂鬱に侵食されて、どうにか耐えなければと思っていたけれど駄目だった。
ずっと終わらせたいと思ってきたけれど、それは簡単な事じゃない。逃げだとも言われた。だからここまできた。
生きたくて生きてきたのではなく、死ねなかったからここまで生きてきてしまった。
でも、生きるというのはどうしようもなく辛い。辛いのに、何故生きなければいけないのか分からなかった。
何故死ぬのかと聞かれれば、疲れたから。
もうずっと言ってきた、聞き流してたんじゃないのか?本当にそれ以外には何も無いんだ。それじゃ駄目なのか?
何かドラマがなきゃ、語れるようなエピソードがなきゃ死を選んでは駄目なのか?
自分の人生を好きな形で終わらせることすら許されないのか?
世の中とぶつかっていくことも、沢山の人に知られることも、俺の人生ではなかったみたいだ。
どうか僕を責めないでほしい。ただ一言お疲れ様とだけ言って、送り出してほしい。例えそこに笑顔がなくても、どうかそう見送って欲しい。』





あまりの痛々しさに言葉を失くした昨日お昼過ぎ。
因みに全文から掻い摘んだものを意訳してるので正確なものとは異なるよ、ごめんね。
遺書を読んで思った事は、この人の言ってることはどれも正論であるということ。そして孕んでいた怒りや失望はナンセンスだということ。







時々思う。
あぁ、今死にたいな。この上なくこの世を去りたい。
って。

理由はその時様々だけど、共通してこの思いだけが私の奥深くに鎮座している。口に出すのも言葉にするのも簡単だから、容易く出てくる。彼も言っていた。
その通りだと思った。
人それぞれ望む死の形があるみたいで、ある人は「私の存在ごと抹消したい」と言っていたし、またある人は「この記憶をもってして生きていくのが嫌だ」と言っていた。
私はというと「死にたいというより楽に生きたいだけだがそんなもの不可能だと分かっているのでこの世を去りたい」という感じ。
でも実行するのは難しいから生きてきた。彼も言っていた。
その通りだと思った。




どうして実行するのが難しいのかと聞かれたら、私の答えは決まってる。
「痛いのは嫌だから」
「生まれ変わりを信じているので、生まれ変われなくなるところまで来たらどうなるのか怖いから」

以上二つ。


一つ目の理由は、彼が練炭自殺を選んだところをみると、きっと同じなんだろうと思った。私も自殺するなら練炭か薬か飛び降りを選ぶ。
未遂者曰くどれも結局は苦しいと聞くけれど、刃物で肉を抉られる痛みは想像するだけで耐えられないし、縄が首に食い込むのを一分一秒と足を上げながら待ち続けるのも無理だと思った。銃は手に入りにくいし、事故死は他人を巻き込んでしまう。溺死は水が苦手な身としては選びたくない。



問題は二つ目で、私はこれが怖くて仕方ない。
幼稚園生の頃に生まれ変わったら何になりたいかと先生に聞かれたのがきっかけだった。なりたいものが沢山あったから、次はこれ、その次はこれ、またその次は...と言ってく中で、時間の有限に気付かされた。


あれ?人間がいなくなっちゃったらどうするんだろう。
...いや、動物もいなくなっちゃったら?
......地球がなくなってしまったら?
.........宇宙がなくなってしまったら?




そこまで考えて怖くなって、夜一人でベッドの中で泣くのが割と習慣だった。生まれて数年しか経っていないのに、いつか訪れる死に絶望する人生。


それでも今は度々死を望むようになった。そんなもんなんだなと思う。多分あれもこれも出来ないことを知ったからだし、その分当たり前の事に幸せを見いだせるようになったからだ。





私の歌はよく「言葉にできないです」と言われる。それでいい。はっきりと言葉にされちゃ困る。歳を重ねて得たそれらを詰め込んでるつもりだから。詰め込んだそれらは、一言で表せないから。



例えば、帰り際に沈む夕焼けを見た時とか、
シャッフル再生で久しぶりにかかった曲を聴いた時とか、
あの日確かに後ろから頭を撫でた貴方と撫でられた私とか。

大したものじゃないけれど、一言では表しにくい幸せがあることを知った。私はこれらが好きだ。
そして満たされた時、私はもういいや、もうこれ以上生きたくないってなってしまう。



不謹慎だからやめろと言われ、親不孝だからやめろと言われ、死ななくても幸せになる道はあるからやめろと言われた。
その通りだと思った。
でも彼は自分の望んだ形で人生を終わりにした。それの何が悪いんだと主張して。

その通りだと思った。





彼の選択は間違ってなかったと思う。
どれだけ沢山の人に愛されて、世界を股に掛けたトップスターになったとしても、苦しかったなら死ぬべきだった。韓国は日本よりバッシングの激しい国だから、例え芸能活動を辞めたとしても自身の生んだ罪悪感と誹謗中傷に潰されて生きる運命を辿ると思う。あの環境で生きていて苦しさしか見いだせなかったなら、死ぬしかなかったと思う。彼は正しかった。愛する家族やメンバーやファンを置き去りにしたとしても。

だから褒めてあげるべきだと思った。
勇気を出したんだねって。彼が望んだ通りに、お疲れ様と、一言。責めるのではなくて頑張ったねと送り出すべきだと思った。彼は英雄だ。『逃げ』に立ち向かった英雄なんだ。






母にこの話をしたら、「パパもよく言うけれど、自殺する人って気が狂ってると思う」と言われた。それを聞いて、何だか私は自身を否定された気がして悲しくなったけれど「そうかもしれないね」と笑って返した。そうかもしれない。

母は私の否定してきた話全ての肯定者だ。他人の死を報道するニュースにもよく反応する。
私はその姿があまり好きじゃない。ニュースを見て「可哀想だよね」と問いかけられても「うん」と答えなければいけない気がしていた。「人の死は嘆かなければいけない」と暗示を掛けるように、思い込んできた。

でも私はそうなれないみたい。
以前ある人との通話で「人の死を報道するニュースをみて悲しくなるか?」と聞かれたことがある。私は「いいえ」と答えた。知らない人の命に興味なんてないし、愛もないから悲しくもならない。
そう答える自分自身は嘘偽りない私だったけど、こんな考えしか出来ない私を少し責めた。我ながら冷たいなと思った。
私もお腹を痛めて子供を産んだら考えが変わるだろうか。




勿論例外もある。他殺だ。殺人事件は可哀想だと思う。
他人に勝手に人生を奪われるなんて許せるわけがない。犯人は問答無用で殺されるべきだと思ってる。例え殺された相手が自殺希望者だったとしても。
二回目だけど、命を棚上げするのも無下に扱うことが出来るのも自分自身だけだと思ってる。決めるのは他人じゃなくて私だ。生みの親であろうが名医であろうが関係ない。

だって命は親のエゴで生まれたものだから。

私自身が望んで生まれたわけじゃない。無理やり与えられて産み落とされた。だから生きてみて嫌だなぁと思って死ぬ人がいるのも、素晴らしい世界だと思って長生きする人が居るのは当たり前だ。

そして長生きした人間は「この世界の素晴らしさを知ってもらおう」と言わんばかりにエゴでさらに命を産み落とす。
だから自殺者は白い目で見られる。どうしてこの素晴らしさが理解出来ないの?って。生きていきたい人だけが残った世界で「生きる」という当たり前を強要される。

違うだろ。周りに口を出す権利なんてないはずだ。
その点他殺はそんなもの問答無用で横からかっさらっていく。生きたかった人も死にたかった人も、自分で選ぶ権利を奪われる。




日本は変に自己責任とかいう言葉でなんでもかんでも済まそうとする。痴漢をされたら「そんな露出の多い服を着てる方が悪い」とか。勝手に家に入られたと訴えたら「ロックが甘いのが悪い」とか。いじめで人が死ねば「いじめられてる側にも問題があったはずだ」とか。



何だそれ。ふざけんな。



どう考えたって、知らない人を犯そうとする痴漢側の狂った考えがおかしい。他人の家に入って盗難しようとする泥棒側がおかしい。気に食わなかったからって人権無視して好き放題やった挙句犯罪に及んだ方がおかしい。犯罪にまで自己責任を持ち込むなよ。結局のところ法を犯した方が負けなんだからさ。


遺書に書かれていた医者も、「貴方の心の弱さが原因だ」と言っていた。彼には自分が自殺する理由を、世の中に押し付ける権利さえ与えられなかった。それに抗うように自殺して、彼は今幸せになれただろうか。ゆっくり休めているんだろうか。そうだったらいいな。







それでも残されたこの世界に悲しむ人は耐えないし、私も悲しい。
彼が亡くなった事がではなくて、もう二度と彼の新たな歌を聴くことも、五人揃ったメンバーを拝むこともないことが、悲しい。
やっぱり命に対する価値観の変化は見られなかったなぁ。
私は薄情なんだろうか。


残された彼の歌声を聴きながら、そう思った1日だった。







以上無意味な果てしなく長い議題。略して無題。
あー.........今回も生産性のない掃き溜めになったなぁ。そろそろ自分で書いといて何言ってんのかわからなくなるのやめたい。今私何書いたか自分でも覚えてない。あと眠いので頭が回ってない。







読んでくれてありがとう、おやすみなさい👋🏻