夏の半券



 その日はやけに湿気が酷くて寝心地が悪かった。汗ばんだ肌に眠気を奪われて、すっかり冴えてしまった目で壁時計を見遣る。午前3時。カーテンの隙間から覗く空は未明と言うには白みすぎているし、明け方と言うには少し暗い。
 再び瞼を下ろす気にもなれず、スプリングを軋ませて身体を起こした。君の寝息が聞こえない部屋には嫌がらせみたいに蝉時雨が響いている。まだ日も登っていないのにこんなに五月蝿かったかと考えて、はっとした。今までは夜更けに目なんて覚まさなかったから、僕が気付かなかっただけだ。君と抱き合って眠る夜は心地が良くて、分け合う体温で汗をかいても朝まで夢の中にいたんだった。

 長い溜息を吐き出して、もうだめだと独り言ちた。君がいた夏はどこか眩しくて大嫌いだったが、いない夏は今度蝉が姦しくていけない。
 にっちもさっちもいかない夜から抜け出したくて、弾かれるように立ち上がると洗面台で顔を洗った。それから適当な服に着替えると、近所をジョギングしに部屋を飛び出した。このままじっと朝を迎えるには、些か手持ち無沙汰で死んでしまいそうだったのだ。









 シャワーを浴びて一息つく頃には、纒わり付く重たい気配も幾らかましになっていた。
 濡れた髪をタオルで掻き混ぜながらキッチンに向かうと、コーヒー豆を詰めたミルのスイッチを押す。がりがりと唸りだしたそれは蟬声よりずっと喧しい。それでも嫌な気にならないのは、毎朝使っていたせいで慣れてしまったからだろうか。朝食は少し多めに取って、最後に淹れたてのブラックで締めるというのが彼女の拘りだったのだ。

 ブラックが飲めない僕にこの習慣はもう必要ない。分かっている。分かっていても、スイッチは切らなかった。

 電気ケトルの準備も済ませたらその場を離れて、2人がけの食卓に腰を下ろす。向かいの空席にはまだ慣れない。ポケットから携帯を取り出して時間を確認すると、既に2時間が経過していた。差し込む光は起き掛けより明るく、室内に燦々たる白線を引いている。
 締め切った密室の中停滞する酸素を吸いこんで、僕はゆっくり目を閉じた。






 彼女と別れたのは今から3日前の事だ。
 なんの前触れもなく「別れよっか」と呟いた君に、僕はたっぷり10は数えて分かったと頷いた。引き止めなかったのは彼女が嫌いだからとか、自分も別れたかったとか、そういうわけじゃない。あまりに真っ直ぐな眼差しに何も言えなくなってしまったのだ。

 臆することなく僕を貫く双眸からは、一縷の悲哀も感じ取れなかった。恋人として過ごした日々は嘘だったんじゃないかという気すらした。
 血も涙もない宣言に全身が冷え込んだが、その真相は、ただ僕に気付かせてあげようとしただけだったと今なら分かる。終点からその先へは進めないように、僕達を乗せた電車もこの日を境にぱったりと線路が途切れていて、これ以上はないと教えてくれただけだった。何も知らない僕が突き進んで脱線しないよう、ここで降りようと手を引いてくれたのだ。

 僕の返事にかんばせを綻ばせた彼女は、飲みかけのブラックもそのままに身一つで出ていった。それが最後のやり取りで、3年近い交際は突然幕を下ろした。






 回想に耽る僕の意識を、挽き終わったミルが呼び起こす。重たい腰を上げてキッチンに戻ろうとすると、ふと壁に立て掛けられたコルクボードが目に入った。彼女との写真やお揃いのアクセサリーを飾っていたものだ。
 まるで魅入られた様に、ゆっくりと歩み寄る。一頻り眺めた後、色の褪せかけた2枚の紙を画鋲からそっと引き抜いた。3年前一緒に観に行った映画の半券だ。


 彼女の誘いで連れられたタイトルは当時流行りの現代ラブロマンスだった。旬の俳優が押し出されただけの捻りもなく目立った展開もないそれは、僕からするととても面白いとは思えなかった。ところが君は座席から立ち上がるなり「すっごい面白かったね」と笑うので、僕もそうだねと目を細めたっけ。普段大人しい彼女が子供になって燥ぐ姿は可愛くて、映画の内容なんてものは一瞬で吹き飛んでしまった。堪らなくなって帰り際に好きだと言えば、彼女は美しく笑ってワンピースを風に靡かせた。

 本当はもっと気の利いた言葉を捧げるつもりだった。それこそ映画みたいに臭い台詞の一つや二つ、こんな時ぐらいはと思っていたけれど駄目だった。口下手な僕にはハードルが高すぎる。結局どれだけ探しても見つからなくて、その3文字が僕の精一杯だった。

「沈黙だってあなたなら、平気だよ」

 見透かした君はそう言って僕の手を取った。家に着くまで繋がれたそれが、君のくれた気持ちだった。今日と同じ蒸し暑い夏の日に、僕達は始まった。


 脳裏に浮かんだ君が、半券を握りしめたまま立ち竦む僕を嗤う。寂しさに憂う背中は誰が見たって男らしくない。やっぱりこういうところで愛想を尽かされたのだろうか。だって喧嘩は殆どしなかったし、キスもセックスもお互い満足していたと思う。趣味はそれぞれ違ったけれど一緒になって楽しんだし、離れ離れになるなんて考えもしなかった。それとも全て僕の独り善がりだったのだろうか。・・・分からない。自問自答しても答えは出ないし、正解かどうか知る術もないのだから。







 少しの間考えて、僕は半券をコルクボードに戻してしまった。
 忘れ合おうと言ったって、そう簡単に全てなかったことには出来ない。紙切れひとつ捨てられない程、僕は彼女が好きだったから。
 どうしようもなく、好きだったんだ。

 今はまだ前に進めないけれど、僕を振るなんてと怒れるぐらい君を嫌いになれたら、捨ててもいいかもしれない。その頃にはきっと更に色褪せてボロボロになっているだろうし。だから次の恋を見つけて、一回り大人の顔が出来るようになるまで。それまではどうか残したままでいさせて欲しい。誰に言うでもなく、僕は心中でそっと乞うた。
 もし、またいつか。どこかで逢えたらその時は、お互いの世界を自慢しよう。僕のいない夏を生きた君と、君のいない夏を生きた僕の話をしよう。同じ朝焼けしか知らなかった僕達で、違う朝焼けの話をしよう。


 その為には出来ることから頑張るしかない。深呼吸をして、放置していたミルに駆け寄った。ドリッパーにフィルターを被せて、挽いた豆を掬い入れる。丁寧にお湯を注いで抽出したものをマグカップに移すと、途端に芳ばしい香りが鼻腔を擽った。良い気になってそのまま一口啜ったが、ミルクのない苦味を好きになるまではやはり時間がかかりそうだ。



 たかが1杯飲み干すのに四苦八苦する僕を、夏の半券だけが見守っていた。








***




『夏の半券』勢いだけでワンライチャレンジ。
完全に妄想の産物なんですけど、自分で書いてちょっと気に入ったので置いときます。書籍化しろよってずっと思ってる。出来れば三秋縋さんに書いて欲しい。

素人の遊びとはいえ、なんか気に触ったりとかあればましまろにぶち込んでください。土下座します。




良ければこれを読んだ後、是非動画見てほしい。音源だけじゃなくてみきとさんが撮った写真も一緒に見てほしいんよ...。
私含めりょーくんVer.を聴いてる人が多いと思うので、敢えてミクVer.貼らせてくれ。全然違って聴こえるので私はどっちも好きです。


幾つになっても聴きたい夏歌。一生神曲。BIGLOVE。